1949年、志賀直哉は谷崎潤一郎と共に文化勲章受章

  • 2017.02.20 Monday
  • 09:18


 

 

1915年、志賀直哉は柳宗悦の勧めで千葉県我孫子市の手賀沼の畔に移り住むます。この後1923年まで我孫子に住み、同時期に同地に移住した武者小路実篤やバーナード・リーチと親交を結びました。

 

 


1949年、志賀直哉は谷崎潤一郎と共に文化勲章受章。学習院以来の友人である武者小路実篤、細川護立、柳宗悦、里見 らの他、梅原龍三郎、安倍能成、和辻哲郎、安井曽太郎、谷川徹三など多くの知識・文化人と交流がありました。

志賀直哉は、戦後間もなくの時期、公用語を「世界中で一番いい言語、一番美しい言語」「論理的な言語」であるフランス語にすべきとの主張をしたことがありました。晩年は執筆を減らしたが、文学全集類に監修で多く名を出しています。


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あなたは、志賀直哉の小説が好きですか?

  • 2017.02.20 Monday
  • 09:16


 

 

Twitterで「あなたは、志賀直哉の小説が好きですか?」と質問し、419人が回答してくれました。とても好き09%、まあ好き21%、好きではない09%、知らない61%でした。

 

 


志賀直哉(しが・なおや、1883年2月20日-1971年10月21日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家です。白樺派を代表する小説家のひとりで、その後の多くの日本人作家に影響を与えました。

志賀直哉の代表作は『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』『城の崎にて』など。唯一の長編小説『暗夜行路』(1921年-1937年)は、近代日本文学の代表作の一つに挙げられています。小林秀雄は、視覚的把握の正確さを評価しています。


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『シュルレアリスム宣言』は『溶ける魚』の序文として書かれた

  • 2017.02.19 Sunday
  • 08:36


 

 

もともとアンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』は、自動記述による物語集『溶ける魚』の序文として書かれていましたが、シュルレアリスムという言葉をはっきりと定義したことで、宣言へと姿を変えることになりました。

 

 


本来の書名は『シュルレアリスム宣言・溶ける魚(Manifeste du surréalisme/Poisson soluble)』です。『宣言』に『溶ける魚』を併収する形をとっていました。


しかし、後に出版される、いわゆる『宣言集』などでは、『第二宣言』、『第三宣言か否かの序』と、『シュルレアリスム宣言』を『第一宣言』として併収し、『溶ける魚』は切り離されることになりました。


ブルトン著の作品としては、ドキュメントの散文作品『ナジャ』の他、『狂気の愛』『通底器』『シュルレアリスムと絵画』など、またスーポーとの共著による、自動記述のテクストを集成した『磁場』、エリュアールとの共著『処女懐胎』などがあります。


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あなたは、アンドレ=ブルトンが好きですか?

  • 2017.02.19 Sunday
  • 08:33


 

 

Twitterで「あなたは、アンドレ=ブルトンが好きですか?」と質問し、692人が回答してくれました。結果は、とても好き04%、まあ好き05%、好きではない03%、知らない88%でした。

 

 


アンドレ・ブルトン(André Breton、1896年2月19日-1966年9月28日)は、フランスの詩人、文学者、シュルレアリストです。誕生日については、ブルトン自身しばしば2月18日とも公言していますが、それは「詩的」な意味です。


ブルトンはシュルレアリスムを創始し、運動として組織しました。その中でブルトンは「法王」として君臨しました。ブルトンは、エルンストやダリら多くの芸術家をシュルレアリスムから「除名」しています。このブルトンの態度、行動、やり方には多くの人間が反発しました。


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森鴎外は、専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えなかった

  • 2017.02.17 Friday
  • 07:58


 

 

森鴎外は、自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物でした。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突しました。

 

 


森鴎外は、医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともあります。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界の学者に不遇で、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判しました。


森鴎外は交際も広く、その顔ぶれが多彩でした。しかし、教師でもあった夏目漱石のように弟子を取ったり、文壇で党派を作ったりはしませんでした。ドイツに4年留学した?外は、閉鎖的な人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたといいます。

 





 

 

森鴎外は、文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に

  • 2017.02.17 Friday
  • 07:58


 

 

森鴎外は、大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごしました。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入りました。

 

 


日清戦争出征や小倉転勤などで、森鴎外は一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響され「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」等も執筆しました。


森鴎外は、晩年帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任しました。1922年7月9日午前7時すぎ、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、腎萎縮、肺結核のために死去。満60歳没。

 





 

 

あなたは、森鴎外の小説が好きですか?

  • 2017.02.17 Friday
  • 07:57


 

 

Twitterで「あなたは、森鴎外の小説が好きですか?」と質問し、858人が回答してくれました。結果は、とても好き15%、まあ好き29%、好きではない15%、知らない41%でした。

 

 


森鴎外(もり・おうがい、1862年2月17日-1922年7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)です。東京大学医学部卒業。本名は森林太郎(もり・りんたろう)。


森鴎外は、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まる遺言(7月6日付)が有名で、その遺言により墓には一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓 」とのみ刻されました。上京した際に住んだ?外ゆかりの地である向島の弘福寺に埋葬され、中村不折が墓碑銘を筆しました。

 





 

 

武田泰淳の『森と湖のまつり』が、発表直後の1958年に映画化

  • 2017.02.12 Sunday
  • 13:25


 

 

武田泰淳は、北海道滞在時に接したアイヌを題材にした『森と湖のまつり』が、発表直後の1958年には映画化されました。翌年には二・二六事件を舞台にした『貴族の階段』が吉村公三郎監督で映画化されました。

 

 


1969年10月から、武田泰淳は、週の半分を過ごしている山梨県南都留郡鳴沢村の富士桜公園山荘から着想を得て、太平洋戦争末期の富士北麓の精神病院を舞台にした長編小説『富士』を文芸雑誌『海』に連載し、1971年に刊行しました。


武田泰淳は、『富士』執筆中に酒量が増え刊行後は、糖尿病原因の脳血栓症で入院、片麻痺が残ったため以後の作品は妻百合子の口述筆記により書かれました。1973年に『快楽』で、日本文学大賞を受賞。

 





 

 

武田泰淳は、1947年北海道大学法文学部助教授に

  • 2017.02.12 Sunday
  • 13:24


 

 

1937年、武田泰淳は華中戦線に送られましたが2年後に除隊。1943年『司馬遷』刊行。終戦時には上海に滞在していました。日本に帰国して、1947年『蝮のすゑ』発表。同年、北海道大学法文学部助教授として勤務しました。

 

 


武田泰淳は1948年に『近代文学』の同人となり、作家活動に専念するため退職し帰京。1951年、昭森社社主の森谷均がオーナーで当時文学者が多く集まっていた神田の喫茶・文壇バーの「ランボオ」で働いていた鈴木百合子との間に子ができます。

 

武田泰淳は、戦時中に起きた知床岬沖で遭難した船長の食人事件をテーマに、1954年『ひかりごけ』を発表。この作品により前述の事件はひかりごけ事件と言われるようになりました。

 





 

 

あなたは、武田泰淳の小説が好きですか?

  • 2017.02.12 Sunday
  • 13:22


 

 

Twitterで「あなたは、武田泰淳の小説が好きですか?」と質問し、572人が回答してくれました。結果は、とても好き04%、まあ好き05%、好きではない03%、知らない88%でした。

 

 


武田泰淳(たけだ・たいじゅん、1912年2月12日-1976年10月5日)は、日本の小説家です。第一次戦後派作家として活躍。主な作品に『司馬遷』、『蝮のすゑ』、『風媒花』、『ひかりごけ』、『富士』、『快楽』など。妻は随筆家の武田百合子、娘は写真家の武田花です。


1976年10月5日、武田泰淳は胃ガン及び転移した肝臓ガンで死去、64歳。未完作に『上海の蛍』(残りは一作のみだった)。葬儀等の後の整理は、遺言で竹内好と埴谷雄高に託されました。没後間もなく、竹内らにより「増補版 全集」(筑摩書房)が刊行されました。

 





 

 

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