滝田洋二郎監督「眠らない街 新宿鮫」、若松孝二監督「我に撃つ用意あり」

  • 2016.02.15 Monday
  • 14:22




「眠らない街 新宿鮫」(1993年) は、滝田洋二郎監督の作品です。大沢在昌による同名の小説「新宿鮫」シリーズの第1弾です。新宿・歌舞伎町界隈で「鮫」を呼ばれる刑事・鮫島を描くハードボイルド・アクション映画。新宿オール・ロケで撮影されました。さすがに新宿の雰囲気をある程度表現しています。ただ、きれいにまとめすぎている面も感じられます。田中美奈子、奥田英二が、しっくりしていません。

若松孝二監督の「我に撃つ用意あり」(1990年)の方が、新宿の独特の猥雑さ、開かれた閉塞感を、より表現できていたと感じました。原田芳雄の存在感も眩しいほどです。



映画「ベイビー・オブ・マコン」、バロック的な映像美も、薄っぺらに

  • 2016.02.15 Monday
  • 12:45




「ベイビー・オブ・マコン」(1993年。イギリス・フランス・ドイツ合作)は、ピーター・グリーナウェイ監督・脚本の作品です。目前で演じられる宗教劇の舞台(演劇)と現実(観客席)の境があいまいになっていきます。

バロック最盛期の1659年、イタリアのとある町のバロック式大劇場で「ベイビー・オブ・マコン」と題する芝居が幕を開けます。世の中が飢餓に苦しむ時代に、妊婦が怪物をはらんでいると予言されます。しかし、生まれてきたのは美しい男の子でした。人々は奇跡の子としてあがめます。この子を利用して金儲けをしようと姉は、自分がこの子を生んだと言いだします。赤子はキリストの再来で、自分はマリアだと主張し、教会と対立します。

芝居が進むにつれて、役者と役者が演じる役との区別や観客と劇中の群衆の区別が、はっきりしなくなっていきます。最後は、町の人々が赤子の死体をバラバラにします。

グリ−ナウェイ監督らしいストーリーですが、緊張の糸が完全に切れています。これまでのグリ−ナウェイは、自身の説明できない禍々しい欲動と命懸けの戯れをしていましたが、今回は、概念で組み立てられているだけです。バロック的な映像美も、薄っぺらに感じます。

音楽監修はダニエル・ロイスが務めました。ヘンリー・パーセル、ジローラモ・フレスコバルディなど、当時の作曲家による曲が使用されています。



映画「お引越し」、オーディションで選ばれた田畑智子のデビュー作品

  • 2016.02.15 Monday
  • 11:16




「お引越し」(1993年)は、相米慎二監督の作品です。原作は、ひこ・田中の同名小説。オーディションで選ばれた田畑智子のデビュー作品です。

小学六年生の漆場レンコは、両親が離婚を前提して別居し、父ケンイチが家を出たために、母ナズナと二人暮らしになります。揺れ動く11歳の少女の葛藤と成長を鮮烈に描いています。

少女が傷つき、やがて癒されるストーリーですが、驚くべき高みを実現しました。日常と非日常が陸続きであることを、軽々と映像化しています。それぞれの核となるシーンは、象徴的というよりは、原神話的ともいうべき深みから描かれています。



映画「めぐり逢う朝」、音楽と映像がデモーニッシュに闘い、かつ耽美的に溶け合う

  • 2016.02.15 Monday
  • 09:55




「めぐり逢う朝」(1991年。フランス映画)は、アラン・コルノー監督作品です。監督が、パスカル・キニャールと共同で原作・脚本を執筆しました。

芸術観を異にする音楽家の師弟の激しい愛憎を描きます。古楽器ヴィオールの響きが作品全体を包みます。音楽と映像がこれほどまでにデモーニッシュに闘い、かつ耽美的に溶け合った作品はそうありません。

中世的な暗がり、薄暮を美しく捉えたイヴ・アンジェロの撮影技術が光ります。コルノー監督は、谷崎潤一郎に傾倒しスタッフ全員に「陰翳礼讃」を読ませたと語っています。

サント・コローム(J=P・マリエール)は隠遁し、娘マドレーヌを側に置き、ただ一人で演奏に没頭する生活を続けていました。弟子となったマラン・マレ(ギョーム・ドパルデュー)は師と違って栄華を求め、破門されます。宮廷音楽界の第一人者になった老マレ(ジェラール・ドパルデュー)の回想のかたちで物語は進みます。

ジェラール・ドパルデューとギョーム・ドパルデューが、親子で青年期と老年を演じたことも話題になりました。しかし、ギョーム・ドパルデューは、2008年10月13日に37歳の若さで死去しました。



映画「ピアノ・レッスン」、女性初のカンヌ映画祭パルム・ドール受賞作

  • 2016.02.14 Sunday
  • 22:17




19世紀のニュージーランドを舞台に、ピアノの音を言葉とする女性と、原住民マオリ族に同化した男性との狂おしい恋愛劇。ジェ−ン・カンピオン監督の「ピアノ・レッスン」(1993年。フランス・ニュージーランド・オーストラリア合作)は、第46回カンヌ国際映画祭のパルム・ドールを受賞しました。女性初のカンヌ映画祭の大賞受賞です。純粋で剥だしの情念がぶつかり合っていますが、不思議な静謐さも漂っています。

グリ−ナウェイの映画では、神経を逆撫でする音を響かせていたマイケル・ノイマンは、ここでは官能の高まりを繊細に奏でています。出色の映画音楽です。しぶきを上げる荒れた海など、自然描写も圧倒的に美しい。

話すことを断念した主人公と9歳の娘の関係、新しい夫と先住民との関係。言葉ではほとんど説明していませんが、細部にさりげなく表現されています。それぞれのシーンは、美しく根源的です。



映画「さらば、わが愛ー覇王別姫」、凄まじい人間凝視と見事な映像美

  • 2016.02.14 Sunday
  • 21:27




チェン・カイコー監督の「さらば、わが愛ー覇王別姫」(1993年。香港・中国の合作)は、日中戦争や文化大革命など、時代に翻弄される京劇役者の目を通して、中国の50年を描いています。原作はリー・ピクワーの小説です。

歴史的なストーリー展開のなかで、差別問題を掘り下げていました。差別されている者が、身近な者を差別することで自分の差別から逃れようとする。この深刻な現実を、京劇の変遷、華麗な王朝の人々を演じつつ基本的には差別されつづけている役者たちを通じて浮き彫りにしています。

その人間凝視は凄まじい。見事な映像美とともに、悲惨な役者たちの物語を中国の民衆は圧倒的に支持し、大ヒットしました。この事実も考えようによっては、なんともやり切れない役者の役割を象徴しているともいえます。



映画「シンドラーのリスト」、スピルバーグ監督の力量を示す

  • 2016.02.14 Sunday
  • 20:30




スティーヴン・スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」(1993年。アメリカ映画)は、ユダヤ人虐殺という重いテーマを扱いつつ三時間の長丁場をとにかく見せる展開。スピルバーグ監督の力量を示しています。

いつもの大げさな演出は影を潜め、説教臭さもありません。虐殺シーンの冷徹さは、ロッセリーニを連想させます。一人のドイツ人が千二百人のユダヤ人の命を救う、というヒューマニズムのドラマに終わっていません。ユダヤ人経理士の圧倒的な影響もしっかり描いていました。

シンドラーが最後に「このナチスの勲章を売れば、もう一人救えた」と叫ぶシーンがあります。ユダヤ人たちは「こんなに救ったのですよ」と慰めますが、このシンドラーの後悔は「何故、ファシズムを許してしまったのか」という問いへと発展していかざるをえせん。この映画が、シンドラーがその後事業と結婚に失敗した、という所で終わっていたら、もっと凄かったと思います。

民族排外主義を何ら教訓化していないイスラエルによって英雄に祭り上げられ、シンドラーの墓に多くの人が列を作るシーンが最後に置かれるのは、不満が残りました。

ファシズムの問題は、個人の良心では解決しません。1万人の死体を積み上げて焼くシーンがありますが、この意味を剥奪された現実から、我々は自由ではありえません。レヴィナス的な問いとして今も切実さを失っていません。

シンドラーが己の欲望に素直だったが故に、ナチズムの底に流れる虚無主義と対峙することができました。ただ、資金が底を突いたときに終戦になったという幸運もありました。改めてあの歴史を教訓化するという意味でも、多面的な問題を孕んでいる作品といえるでしょう。



アイスランド映画「春にして君を想う」

  • 2016.02.14 Sunday
  • 18:37




アイスランド映画「春にして君を想う」は、フリドリック・ト−ル・フリドリクソン監督の作品です。アイスランドは、人口25万人の国で、映画制作の黎明期。映画に対するナイ−ブな情熱と出演者の家族的雰囲気が漂っています。

施設を逃げだして故郷に帰ろうとする老人たちのロ−ドム−ビ−という設定は、世界的な普遍性を持っています。ただ、キリスト教的な調和へと回収していく姿勢には、同感できませんでした。

最後に、ブル−ノ・ガンツが天使役で登場する場面は、「ベルリン天使の詩」、ヴィム・ヴェンダ−ス監督への敬意が、静かに伝わってきました。



映画「フィラデルフィア」、エイズとゲイに対する偏見を法廷で覆す

  • 2016.02.14 Sunday
  • 12:04




ジョナサン・デミ監督の「フィラデルフィア」(1993年)は、エイズとゲイに対する偏見を法廷で覆していく物語です。第66回アカデミー賞でトム・ハンクスが主演男優賞を受賞しました。ただ、エイズ問題も、同性愛差別も、極めて中途半端にしか描いていないと思います。

法曹界という、特権的な世界の中での話で、エリ−トほど社会防衛的な意識が強い。その辺の掘り下げも不足しています。主人公の家族が、最初からこぞって応援するというのも出来すぎです。輸血による感染か否かいう感染原因によるエイズ患者の選別化という根強い傾向に対する批判も、あいまいなまま終わっています。

エイズという重いテ−マを描きながら、 時には笑えるエンタ−テインメントを目指したと監督が話していましたが、それにしてはパワ−が不足しています。エイズに感染した友人がいたとしても、自分が安全な位置にいては、エイズ問題には深く切り込めません。

その点では、距離感を失うほど切実さに満ちた「野性の夜に」の方がはるかに共感できます。エイズ問題と同性愛問題は、はっきりと区別しなければなりません。



ジェ−ン・カンピオン監督「ピ−ル」「キツツキはいない」「彼女の時間割」

  • 2016.02.14 Sunday
  • 09:07




ニュ−ジ−ランドのジェ−ン・カンピオン監督は、屈折した想念と鋭すぎるほどの映像感覚を持っています。まさにカンピオン的としか表現できない独自性です。

「ピ−ル」「キツツキはいない」「彼女の時間割」という初期短編集が劇場公開されました。ごく短い10話のオムニバス「キツツキは いない」(1984年)は、日常的なちょっと間の抜けた思いや行為を、丹念に収集した作品です。 そんな何気ない瞬間、すぐに消え思い返すこともない瞬間への慈しみに満ちていました。

「ピ−ル」(1982年)の色彩感や乾いていながら妙に優しいユ−モア感覚も、捨てがたい。「彼女の時間割」(1984年)は「エンジェル・アット・マイ・テ−ブル」(1990年)の少女たちにつながります。現実への違和感を抱えながら、演技と本心とのあわい境で揺れる気持ちが映像化されています。



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