日本で取り組まれていた夏マラソン研究は世界最先端

  • 2016.09.13 Tuesday
  • 07:47


 

 

女子マラソンでは、オリンピックで1992年のバルセロナオリンピックで銀メダル、1996年のアトランタオリンピックで銅メダルと連続メダルの有森裕子、2000年のシドニーオリンピックで金メダルの高橋尚子、2004年のアテネオリンピックで金メダルの野口みずきがいます。

 

 


世界陸上競技選手権の女子マラソンでは、1993年シュトゥットガルト世界陸上で金メダルの浅利純子、1997年アテネ世界陸上で金メダルの鈴木博美、他にも銀メダル銅メダルは多数という、女子マラソン選手が世界的な競技大会でメダルを量産する活躍を見せ、全盛時代を築きました。


日本で取り組まれていた夏マラソン研究は世界最先端であり、1990年代前半以降のオリンピックや世界陸上競技選手権での日本人選手のメダル獲得は、その研究の賜物であるのも否定できません。

 




 

日本の最初のマラソンは、1909年3月21日

  • 2016.09.13 Tuesday
  • 07:46


 

 

日本の最初のマラソンは、1909年3月21日に開催された「マラソン大競争」です。兵庫県神戸市兵庫区の湊川埋立て地をスタートし、大阪市の西成大橋(現淀川大橋)にゴールするという距離約32kmの片道コースでした。優勝者は岡山県在郷軍人の金子長之助でタイムは2時間10分54秒でした。

 

 


日本が初めて選手を派遣した1912年のストックホルムオリンピックからマラソン選手(金栗四三)を送っています。1964年の東京オリンピックで円谷幸吉が3位銅メダル、1968年のメキシコオリンピックで君原健二が2位銀メダルになるなど、日本の男子マラソンは世界最高記録保持者を輩出しました。


1970年代後半から1990年代前半にかけて、宗茂、宗猛、瀬古利彦、伊藤国光、中山竹通、谷口浩美など、マラソン世界歴代10傑に名前を刻む選手を数多く輩出し、1991年の東京世界陸上で谷口浩美が金メダル、1992年のバルセロナオリンピックで森下広一が銀メダルに輝き、マラソン黄金時代を築きました。

 




 

マラソンは、心理的駆け引きと持久力からスピードへ

  • 2016.09.13 Tuesday
  • 07:46


 

 

マラソンは、42kmの長丁場を考慮した心理的駆け引きと持久力が重要でした。しかし、近年は男子女子ともに高速化がめざましく、スピードも求められるようになってきました。

 

 


マラソンで、ペースメーカーを利用したスリップストリームや、同じ国やチームの選手で組んでラップの上げ下げを意図的に行い、余裕のない選手やスピードの乏しい選手をふるい落とすなど、自転車ロードレースの様な動きも見られるようになりました。


2007年から東京マラソンが日本陸連公認の大会としては初めて市民ランナーにも開放され、3万人規模の大会として成功を収めています。


一般のマラソン大会に於いては仮装ランナーも多数登場し大会を盛り上げていますが、スポーツとしての側面からマラソンでの仮装には賛否両論があります。

 




 

第1回のアテネ五輪の当時、陸上競技は男子のみ

  • 2016.09.13 Tuesday
  • 07:45


 

 

 

 

 

第1回のアテネ五輪の当時、陸上競技は男子のみで行われ、マラソンも例外ではありませんでした。ただし、当日隠れて同じコースを走ったメルポメネという女性がおり、史上初の女子マラソンランナーとされています。


その後女子の陸上競技への参加が認められるようになっても、「女子がマラソンを走ることは生理的に困難」という見解が広く信じられ、オリンピックをはじめとするマラソン大会も男子のみで開催されていました。


1966年のボストンマラソンで主催者に隠れて参加する女子が出現、その後も非公式の女子の参加者が増えたため、1972年に女子の参加が認められました。日本国内で初めてマラソン公認コースを競技として走った女性は、1975年7月26日に網走市のコースに挑んだ札幌短期大学の6人の選手です。


1979年にIAAFが公認する史上初の女性限定マラソン大会として、東京国際女子マラソンが開催されました。オリンピックで女子のマラソンが正式に採用されたのは、1984年のロサンゼルスオリンピックからです。

 




 

第4回ロンドンオリンピックの「ドランドの悲劇」

  • 2016.09.13 Tuesday
  • 07:44


 

 

第4回ロンドンオリンピックのマラソンで、最初に競技場に到達したイタリアの選手ドランド・ピエトリはゴール地点を勘違いして直前(彼の認識におけるゴール)で倒れ、役員の助力でゴールしたため、のちに失格となりました。

 

 


ピエトリは、ゴールまでに何度も倒れ、そのたびごとに係員に抱え上げられました。彼はへとへとに疲れ果てながらも、何とか1着でゴールすることができました。タイムは2時間54分46秒でした。ラスト350mに10分もかかっていました。2着はアメリカのジョニー・ヘイズでした。


アメリカチームはすぐに、ピエトリが係員に助けられながらゴールしたことについての異議を申し出ました。異議は認められ、ピエトリは失格となり、最終成績からも抹消されてしまいます。これが有名な「ドランドの悲劇」です。スタジアムは影も形もありませんが彼のゴール地点は現在も残されています。

 




 

マラソンの距離42.195kmは古代マラソンに由来しない

  • 2016.09.13 Tuesday
  • 07:43


 

 

マラソンの距離は42.195kmと設定されていますが、これは古代マラソンに直接由来するものではありません。オリンピックでマラソン競技が実施された当初は、大会ごとの競技距離は一定ではなく(同じコースを全選手が走ることが重要とされていたため)、約40kmで行われていました。

 

 

 

マラソンの競技距離が統一されたのは、第8回パリオリンピック以後であり、42.195km(26マイル385ヤード)とされました。この距離は第4回ロンドンオリンピック時の走行距離(市街地42km+競技場の200mトラック1周弱)をそのまま採用したものです。


第4回ロンドンオリンピックでは、当初、26マイル(41.843km)で競うこととされていました。この際、時の王妃アレクサンドラが、「スタート地点は宮殿の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前に」と注文したために半端な数字の距離だけ延長されたという逸話があります。

 




 

マラトンから約40km離れたアテナイまでを駆け抜ける

  • 2016.09.13 Tuesday
  • 07:43


 

 

紀元前450年9月12日、アテナイの名将ミルティアデスはマラトンに上陸したペルシャの大軍を奇策で撃退しました。マラトンの戦いです。勝利というエウアンゲリオン(良い知らせ)をアテナイの元老に伝えるためにフィディピディス(Philippides)という兵士が伝令に選ばれました。

 

 


フィディピディスは、マラトンから約40km離れたアテナイまでを駆け抜け、アテナイの郊外で「我勝てり」と告げた後に力尽きて息を引き取ったと言われています。


マラトンの伝承はヘロドトスの『歴史』によるとされ、アテナイは現在のアテネとされています。ただし、この話が史実かという点については諸説があります。戦いの日時を紀元前490年11月2日とする説もあり、プルタルコスによれば兵士の名前はエウクレス(Eukles)とされます。

 




 

あなたは、フルマラソンをしたことがありますか?

  • 2016.09.13 Tuesday
  • 07:41


 

 

Twitterで「あなたは、フルマラソンをしたことがありますか?」と質問し、1,313人が回答してくれました。結果は、何度もある06%、1度ある07%、ない87%でした。

 

 


マラソン(marathon)は、陸上競技の長距離走のひとつで、42.195kmの公道コースを走り、順位や時間を競う種目です。フランスの言語学者ミシェル・ブレアルの提案により、古代ギリシアの故事に由来して、第1回近代オリンピックの創設に伴い陸上の新種目とされました。


一般市民向けのスポーツ大会では、ハーフマラソン(21.0975km)やクォーターマラソン(10.54875km)をはじめ、42.195kmよりも短い距離でも、道路を使う長距離走であれば、マラソンと呼ぶことが多いです。これに対し42.195kmの距離を走るマラソンをフルマラソンといいます。

 




 

1992年、松井秀喜に対し5打席すべて敬遠

  • 2016.08.19 Friday
  • 07:44


 

 

1992年8月16日に行われた明徳義塾対星稜の試合では、明徳義塾の監督は星稜の4番松井秀喜に対し5打席すべてを敬遠するという作戦に出ました。試合は明徳義塾が勝利しましたが、試合終了直後から試合内容に納得のいかない観客から「帰れ」コールやブーイングが起きました。

 

 


2006年に行われた高校野球県秋田県予選準決勝の本荘対秋田戦で、雨天ノーゲームを巡る遅延行為と故意遅延プレーが発生しました。秋田は雨天ノーゲームを狙い、打者が一球ごとに打席を外す、投球テンポを遅くする、盗塁したランナーを故意に進塁させるなどの遅延行為を行いました。


2011年の選手権大会で習志野高校(千葉)の吹奏楽部が、引率教師の指示の下作戦の一環として、相手校が「タイム」をかけてマウンドに集まれば、マウンドに向きを変え「相手ベンチからの指示を聞こえなくしたり、マウンド上での会話をしにくくしたりする」ことをしました。

 




 

1958年、沖縄には甲子園の土を持ち帰れず

  • 2016.08.19 Friday
  • 07:44


 

 

1937年の第23回大会で、熊本工業は決勝戦で敗れて準優勝に終わりました。決勝戦終了後に、熊本工の投手だった川上哲治(のち読売ジャイアンツ監督)は甲子園の土をユニフォームのポケットに入れ、自校の練習場にまきました。甲子園以外で同様のことをしている選手の真似であったと語っています。

 

 


1946年の第28回大会では、準決勝にて敗れた東京高等師範附属中の佐々木迪夫監督が、最上級生以外の選手達に来年また返しに来るという意味で、各ポジションの土を手ぬぐいに包んで持ち帰らせました。これが新聞で記録されている最古の持ち帰りです。


1958年当時の沖縄はアメリカ統治下にありました。その夏の大会で、春夏を通じて初めて沖縄から首里が出場。1回戦で敦賀(福井)に敗戦し、試合終了後に甲子園の土を拾いました。しかし検疫の関係で沖縄に持ち帰ることができず、帰郷後処分されたといいます。

 




 

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