恐竜たちの一日
- 2017.01.29 Sunday
- 23:10
私の「プチアート」は、最初の絵や写真の印象と大きく異なる作品になることが多いです。iPhoneアプリの、さまざまな効果、フィルターを重ねて使用し、思いもかけない表現に行き着きます。
写真アプリの複数の効果、フィルターは、想像できないような質感を生み出します。偶然によって誕生した「プチアート」も多いのです。たくさんの偶然の表現から、私が選択を重ねて作品になっていきます。
私の「プチアート」は、シュールレアリストたちが活用したデカルコマニー、フロッタージュ、コラージュのデジタル版だとも言えます。私の無意識を引き出し、見ている人の無意識に働きかけます。
私が「プチアート」制作の過程で思い浮かべた物語から作品には、題名が付いています。題名と絵は、しばしば緊張関係にあります。本当は、見ている人、一人一人の解釈にゆだねた方が良いのかもしれません。
私の作品には、いつも自然音や音楽が響いていますが、特に音を感じる作品です。
「結び忘れた雨音」。
https://twitter.com/tawarayat/status/720172254751920129/photo/1
「水音の秘密」。
https://twitter.com/tawarayat/status/591023513823096833/photo/1
「風の音符」。
https://twitter.com/tawarayat/status/461879293274886146/photo/1
1527年のローマ略奪に乗じて起きた反メディチ革命のさいにはダビデ像が打ち壊され、左腕が損壊するという大きな被害を受けました。この左腕の破片はヴァザーリが拾い集めて後日修復されました。
ダビデ像の損害が再び起こることや風雨によって大理石が劣化することを避けるため、1873年にダビデ像はフィレンツェのアカデミア美術館に移動されることとなりました。もともとダビデ像が置かれていた市庁舎前には1910年から複製が置かれています。
1991年、観覧客の一人が鉄鎚でダビデ像に打ちかかり、左足が砕かれるという事件が起きました。現場検証によって得られた大理石の砕片を鑑識にかけた結果、ミケランジェロが用いた大理石はカッラーラの分離集落にある採石場から得られたものであるという事実が判明しました。
ダビデ像の完成が近づいた1504年1月25日、フィレンツェ市当局はレオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリを含むフィレンツェの芸術家たちによる協議会を設け、ダビデ像を設置するのに最もふさわしい場所を決めるための会合を開きました。
市民の士気を高めるという意義を背負ったダビデ像を最も適切な場所に置くことは、市当局の政策の一環であり、ミケランジェロ個人の手を離れた問題となっていたためです。当初の計画通りに大聖堂内もしくはその近くに置くべきと主張したボッティチェリらは少数派でした。
ジュリアーノ・ダ・サンガッロは、屋外に置くと大理石のダビデ像が損傷するおそれがあるためシニョリーア広場にあるランツィの回廊を提案しました。ダ・ヴィンチらも賛同し多数を占めましたが、市政長官はヴェッキオ宮殿の正面入口脇に置くと裁定を下しました。
ミケランジェロは、作品を制作する過程のすべてに直接関与し、己れの全精力を傾けることによって己れの全個性を作品のうちに刻み込むという芸術家としてのポリシーをもっていました。
ミケランジェロは、他の多くの芸術家のように工房を設立して共同作業で多くの作品を同時進行で制作することをせず、やむにやまれぬ場合を除いては助手を雇うこともしませんでした。
ミケランジェロには、フィレンツェ当局のために制作したもう一つのダビデ像があります。1504年にロアン元帥が失脚したため契約は破棄され、ミケランジェロも鋳造まで終えていながら仕上げを放棄してしまいました。このブロンズ像は、17世紀以降行方不明となっています。